「遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。」
白川静の「遊字論」の一説だ。
古代文字では、旗を持つ子供の姿。
天遊の名前にも入っている。
ある哲学者いわく、遊ぶというのは、娯楽、暇つぶし、気晴らし、の一方、華道、茶道、武士道など、「道」を極める世界も、入るそうだ。
「遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。
それは神の世界に他ならない。
この神の世界にかかわる時、人もともに遊ぶことができた。」(遊字論)
確かに、古代文字アーティストとして独立してからは、作品をよくするために書きこむのではなく、多くの時間を、何のために書くのか、書きたいのか、書きたくないのか、という、自分自答をしている。
面白いもので、ふと手にした本や、誘われて行ったイベントから 次々に繋がって、まるで何かに導かれるようにひらめくことが、多々ある。形のない何かに導かれ、気づかされているのかも?と思いたくなる。
遊びは、ゆたかな創造の世界なのだ。
「神は常には隠れたるものである。
それは尋ねることによって、はじめて所在の知られるものであった。」(遊字論)
技術だけを磨くのではなく、その工程、過程で、何に気づかされるのかが、「道」なのだ。
もっと無心に、遊びたおそう。